● 「宇宙戦艦ヤマト」製作へ ●
虫プロ倒産直前、西崎氏は名作をプロデュースした。「海のトリトン」である。
―――「宇宙戦艦ヤマト」の権利をめぐっての争いもありましたね。
高橋:あの企画そのものは西崎義展氏がズイヨーの役員だったとき、彼が企画していました。キャラクターは何人かに頼んで断られたあと、松本零士氏が描いたもので、それで決定した。はじめは帆船のようなものを描いてきて、船の名は、武蔵そのほかいろいろ出ていましたね。雑談のなかで「戦艦を飛ばしたら?ヤマトなんかはまだ日本人の思い出のなかに大きく残ってるよ」と話したのを覚えています。結局「宇宙戦艦ヤマト」(1974−75)になった。当時、ズイヨーは、「ハイジ」をフジTVから放映中で、道義上そのまったく裏の時間帯に「ヤマト」を日本テレビで放映するわけにはいかない。それで西崎は別会社の形をとって、そこでこの企画を進めた。西崎がズイヨーを退社するときに「ヤマト」と「ワンサくん」(1973)は彼の所有としたので、ズイヨーとのあいだに問題はないが、松本氏とのあいだに争いがあったようですね。
だそうだ。
この作品には今のアニメ界では重鎮となった方々が、数多く参加している。しかし残念ながら、この作品も評価を受けるまでに時間を必要としてしまった。
虫プロの倒産で才能あるクリエーターが分散した中、西崎氏は宇宙戦艦ヤマトの基礎となる作品を瑞鷹エンタープライズから発表した。
それは、まさに音楽畑出の人間らしい、「明治一代女」の振り付けなどがいたるところに挿入された奇抜な作品「ワンサくん」である。
スタッフは企画/西崎義展、瑞鷹エンタープライズ ・ 脚本/藤川桂介 ・ 音楽/宮川泰 ・
監督/山本暎一と、宇宙戦艦ヤマトと同じメンバーであった。
しかしこの奇抜な作品も、またもや興業的に失敗作となってしまった。
西崎氏には、もう失敗は許されなかった。彼は、原作に囚われない、独自のオリジナル作品を考えていた。今まで無かったような作品、視聴対象を広げた作品。それこそが「宇宙戦艦ヤマト」であった。
そしてその実現に彼は妥協を許さない、作品を徹底的に煮詰めるスタンスを作り上げた。これは今までの原作が存在する作品と違い、宇宙戦艦ヤマトは製作そのものが原著を作り上げる作業であり、製作者の意向がそのまま反映されるという、ゼロからの作品創りであったのだ。
ただ一つ不思議なのは、その後「宇宙戦艦ヤマト」になる企画は、ハイジと同じ瑞鷹エンタープライズで立てられたものなのだ。
これについてはズイヨー映像の高橋茂人氏へのインタビュー記事、小野耕世氏著「高橋茂人
日本におけるテレビ CMとTV アニメの草創期を語る( TCJからズイヨーへの歴史)」http://www.kyoto-seika.ac.jp/researchlab/wp/wp-content/uploads/kiyo/pdf-data/no26/ono.pdfから引用すると、
―――「宇宙戦艦ヤマト」の権利をめぐっての争いもありましたね。
高橋:あの企画そのものは西崎義展氏がズイヨーの役員だったとき、彼が企画していました。キャラクターは何人かに頼んで断られたあと、松本零士氏が描いたもので、それで決定した。はじめは帆船のようなものを描いてきて、船の名は、武蔵そのほかいろいろ出ていましたね。雑談のなかで「戦艦を飛ばしたら?ヤマトなんかはまだ日本人の思い出のなかに大きく残ってるよ」と話したのを覚えています。結局「宇宙戦艦ヤマト」(1974−75)になった。当時、ズイヨーは、「ハイジ」をフジTVから放映中で、道義上そのまったく裏の時間帯に「ヤマト」を日本テレビで放映するわけにはいかない。それで西崎は別会社の形をとって、そこでこの企画を進めた。西崎がズイヨーを退社するときに「ヤマト」と「ワンサくん」(1973)は彼の所有としたので、ズイヨーとのあいだに問題はないが、松本氏とのあいだに争いがあったようですね。
だそうだ。
こうして西崎氏の伝手で集められた多くの才能あるクリエーターと、自分の世界観を実現する為には妥協を許さないプロデューサーによって、「宇宙戦艦ヤマト」は坊ノ岬の海底から飛び立ったのだ。