● ヤマトに成功をもたらしたもの ●
虫プロを離れた事により、オリジナル作品を企画する必要性があった西崎氏は、自分の伝手を使い多くのクリエーターを集結させ、新作のアイデアを集約し始めた。
この、後にヒットをもたらした人選・アイデアは、実のところアニメ一本槍ではなかった西崎氏だからできえた事だった。
スポンサーの顔色を伺う必要なく、人選はアニメ界にこだわる必要も無く、なにより既成のアニメ作品に追随する必要も無かったのだ。
当時アニメ界では実績の無い松本零士氏を起用したのも、西崎氏があっての事と思う。
しかしこうして作られたヤマトも、本放送当時は低視聴率に終わり、失敗作になってしまったのだ。
だが西崎氏は、多くのクリエータの力を借り、全身全霊を込めた作品をこのまま終わらす訳にはいかなかった。それは製作に携わったスタッフの為でもあり、自分の為でもあったからだ。
ここから西崎氏の、ヤマトの灯を守る闘いが始まった。
西崎氏は、興行的に利益が上がらないのを覚悟で、ヤマトの映画化や、外国への売り込みに奔走した。これは、宇宙戦艦ヤマトの製作に携わったどんなクリエーターでも、西崎氏と同じ事を行なうのは困難であったに違いない。
時を同じく、宇宙戦艦ヤマトの評価は視聴者の間で大きな渦を作り出していた。
TV局には再放送を求める声が多く寄せられ、当時の中高校生の間ではファンの輪が広がりつつあった。
だがそれらは今の情報社会とは違い、狭い地域の断片的声や、一部メディアに届く声でしかなく、全国的なファンの声を約束したものではなかった。大きな渦が西崎氏に届き、世間にニュースとなって伝えられたのは、1977年の「劇場版
宇宙戦艦ヤマト」上映初日だった。
宇宙戦艦ヤマトはそれ以前のアニメ作品とは違い、時間と製作費を多くかけ、多くのクリエーターによる総合作品であり、「TVまんが」とは質そのものが違う最高級品であった。
とわいえ、最終的にヤマトを高みに押し上げたのは視聴者である、一般のファンなのだ。
『ファンあっての宇宙戦艦ヤマト。』
この多くのファンがいたからこそ、西崎氏のヤマトの灯を守ろうとする努力が報われた。そしてそれを1977年の夏に一番感じたのも、西崎氏本人だったはずだ。
だが時にそれは、「ファンあっての宇宙戦艦ヤマト」ではなく、「宇宙戦艦ヤマトあってのファン」に変わる危険性も秘めていた。